東京地方裁判所 昭和51年(ヨ)2294号 決定 1976年7月23日
申請人
村上節子
右申請人代理人弁護士
小池振一郎
外三一名
被申請人
日本テレビ放送網株式会社
右代表者代表取締役
小林興三次
右被申請人代理人弁護士
竹内桃太郎
同
渡辺修
主文
一 申請人は被申請人が昭和五一年五年一一日付で発した審査室考査部勤務を命ずる旨の配転命令に従う労働契約上の義務を負わないことを仮に定める。
二 申請費用は被申請人の負担とする。
理由
一被申請人は、放送法による一般放送事業者であって、テレビジヨン(以下、単にテレビという。)の放送を主たる目的とする株式会社であること、申請人は、昭和三四年四月一日、被申請人と労働契約を締結し、以来、被申請人会社編成局編成部アナウンス課(以下、単にアナウンス課という。)の従業員としてテレビ放送のアナウンス業務に従事してきたこと、被申請人は、昭和五二年五年一一日、申請人に対し、被申請人会社審査室考査部(以下、単に考査部という。)勤務を命ずる旨の配転命令(以下、本件配転命令という。)を発したことは、当事者間に争いがないところ、申請人は、本件配転命令は申請人の意思を無視してなされたものであるから無効であると主張するので、まず、この主張の当否について判断する。
二疎明資料(<証拠略>)および当事者双方審尋の結果を総合すれば、次のような事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる疎明はない。
1 テレビ放送におけるアナウンス業務は、日本語その他の放送用語についての正確な知識、一般的な教養、社会常識等はもとより、的確な言葉の選出、発声、発音、話術や臨機の注意力、理解力、判断力等アナウンサーに独特の技術、能力を要求されるとともに、カメラを通じて映し出される人間的な温かさや信頼感、各種のタレント性をも必要とする高度に専門的な業務であり、しかも、これらの知識、技術、能力等はアナウンサー自身の不断の努力、訓練と長年の実施の経験とによつてはじめて獲得され増進されるものであること。
2 申請人は、昭和三四年三月に早稲田大学第一文学部国文学科を卒業したものであるが、早くから自己の職業としてアナウンサーを志し、すでに右大学在学中より同大学放送研究会アナウンス部に所属して、アナウンサーに必要な知識、技術、能力等を磨いていたものであること。
3 申請人は、被申請人が昭和三三年の秋に行なつた昭和三四年度の女子アナウンサー採用のための公募に応じ、その選考試験に合格して、アナウンス課の従業員に採用されることになつたものであるが、右選考試験は、女子アナウンサーとしての能力、適性の選別に重点を置いて実施されたものであつて、書類選考、第一次面接、学力筆記試験、第一次音声・カメラテスト、第二次音声・カメラテスト、第二次面接、健康診断の順序で厳格に行なわれ、応募者が約二〇〇〇名であつたのに対し、最終合格者は申請人を含めわずか五名にすぎなかつたこと。
4 被申請人は、昭和三四年度の従業員新規採用選考試験としては、右の女子アナウンサー選考試験のほかに、縁故募集による編成要員の選考試験および公募による技術要員の選考試験をほぼ同時に実施したが、これらの選考試験はそれぞれ別個の目的および内容を有するものであつて、単に女子アナウンサーの選考試験と編成要員の選考試験との学力筆記試験の内容が共通であつたにすぎないこと。
5 申請人ら女子アナウンサー選考試験の最終合格者は、いまだ採用内定の段階にすぎなかつた昭和三三年一二月中旬ごろから約四カ月間、被申請人から女子アナウンサーに必要な特別の教育、訓練を受けたうえ、昭和三四年四月一日に、アナウンス課の従業員として採用されたものであること。
6 そして、申請人は、右のとおり昭和三四年四月一日にアナウンス課の従業員に採用されてから本件配転命令を受けるまでの約一七年間、一貫して同じアナウンス課に所属し、テレビ放送のアナウンス業務のみに従事してきたものであること。
7 なお、少なくともアナウンス課所属の従業員については、これまで、従業員本人の承諾を得ないで、職種の異なる他の業務への配転を命ぜられた事例は存在しないこと。
三右の二で認定した事実を総合して判断すれば、申請人が労働契約締結の際に被申請人に対しテレビ放送のアナウンス業務以外の業務にも従事してよい旨の明示または黙示の承諾を与えているなどの特段の事情の認められないかぎり、申請人は、被申請人との間に、テレビ放送のアナウンス業務のみに従事するという職種を限定した労働契約を締結したものであつて、その後申請人が個別に承諾しないかぎり、被申請人会社におけるその余の業務に従事する義務を負わないものと解すべきである。そして、本件の全疎明資料を検案しても、申請人が労働契約締結の際に被申請人に対しテレビ放送のアナウンス業務以外の業務にも従事してよい旨の明示また黙示の承諾を与えているなどの特段の事情は認められない。そうすると、申請人がその後個別に承諾しないかぎり、被申請人は、申請人に対し、テレビ放送のアナウンス業務以外の業務に従事することを命ずる労働契約上の権利を有しないものといわなければならない。なお、疎明資料(疎乙第一号証)によれば、被申請人会社の職員就業規則第三八条は、従業員(職員)の転勤、転職等につき、「会社は業務に必要あるときは職員に転勤、転職または社外業務に出向を命ずることがある。出向の際の取り扱いは別に定める。」と規定していることを認めることができるけれども、この就業規則の規定が右に述べたような職種を限定した労働契約に優先して適用されその契約の効力を失わせると解すべき根拠は全く考えられないから、この規定の存在は右に述べた結論を左右するに足りるものではない。
四ところで、本件配転命令により申請人が勤務を命じられた考査部の業務の内容について検討するに、疎明資料(<証拠略>)によれば、考査部の業務は、放送番組および広告の内容等の考査、番組審議会および社外モニターに関する事務等を内容とするものであつて、テレビ放送のアナウンス業務とは全く異種の業務に属するものであるのみならず、その業務を遂行するためには、アナウンス業務には要求されない、放送基準および放送法、電波法その他の関係法令に関する専門知識や編成、制作、営業等の経験の要求されることが認められ、この認定を覆すに足りる疎明はない。
五そうすると、申請人の個別の承諾がないかぎり、被申請人は、申請人に対し、右のような考査部の業務に従事することを命ずる旨の本件配転命令を発する労働契約上の権利を有しないものというべきところ、本件の全疎明資料を検案しても、申請人が本件配転命令の発される前または後に被申請人に対し考査部への配転を確定的に承諾した事実は認められない。のみならず、疎明資料(<証拠略>)によれば、被申請人に対するアナウンス課からの転出の交渉は昭和五〇年二月ごろから開始されたものであるところ、その交渉の過程には紆余曲折があり、申請人も、当初の段階においては、制作局における番組制作の現場の業務(とくにワイドシヨーのデイレクターの仕事)を与えられるのであれば、アナウンス課から転出してもよい旨のかなり積極的な意思表示をしていたものの、その後その転出が困難になり、昭和五一年二月ごろ以降新しく考査部への転出が交渉の対象とされるようになつてからは、申請人は、その転出を承諾する旨の確定的な意思表示をしたことはなく、とくに本件配転命令の発される前後の時点においては、その転出に強く反対する旨の明示の意思表示をしていたことが認められる。(したがつてまた、申請人が、本件配転命令の前に、被申請人との間で、労働契約の職種をアナウンス業務に限定する契約部分を合意解約したという被申請人の主張は、これを採用することができない。)
六なお、被申請人は、申請人をアナウンス課から考査部に配転させることにした理由として、被申請人会社の制作担当部門が申請人を担当アナウンサーに指名するレギユラー番組は昭和四九年四月ごろからほとんど皆無の状態であるが、これは申請人がすでにアナウンサーとしての適格性を失うに至つたと社内で評価されているためであること、他方、考査部の業務は今後これを拡充強化する必要があるとともに、申請人はその学歴および経歴から見て考査部の業務に従事する適性があると認められることなどを挙げて、被申請人の発した本件配転命令は合理性があり有効あると主張している。しかしながら、被申請人が申請人の配転の理由として主張するような事実が認められるか否かはともかく、仮にそのような事実がすべて認められるとしても、先に認定、判断したとおり、申請人と被申請人との間に締結された労働契約は申請人の従事する職種をテレビ放送のアナンス業務のみに限定した労働契約であつて、被申請人は、申請人の個別の承諾がないかぎり、申請人に対しテレビ放送のアナウンス業務以外の業務に従事することを命ずる労働契約上の権利を有しないものであり、そして、被申請人会社の職員就業規則第三八条の規定も右労働契約の効力を失わせるものではないと解すべきである以上、被申請人の右主張は結局その理由がないといわなければならない。けだし、前記のとおり申請人が考査部への配転を承諾した事実が認められない本件においては、被申請人が申請人の配転の理由として主張する事実をもつて申請人の承諾に代置することができないかぎり(本件においてはそのような代置は不可能というべきである。)、本件配転命令は、その合理性の有無を問題にするまでもなく、その効力を有しないものといわざるをえないからである。
七以上において判断したところからすれば、本件配転命令は申請人の意思を無視してなされたものであるから無効であるという申請人の主張は、その理由があり、したがつて、申請人らは何ら本件配転命令に従う労働契約上の義務を負わないものというべきである。
八そこで、さらに進んで本件仮処分の必要性について判断するに、右に述べたとおり、申請人は何ら本件配転命令に従う義務を負わないものであるが、しかし、そのことが本案判決によつて確定されるまでは、当事者にはそのことがなお不明確であるがために、申請人は、事実上、被申請人からアナウンス課の業務に従事することを拒否されるとともに、労働契約上何ら従事する義務のない考査部の業務に従事することを余儀なくされる蓋然性が大であるといわなければならない。そうだとすれば、申請人がそのことによつて本案判決の確定するまでの間に被る精神的ないし身体的苦痛は甚大なものであるというべきである。また、申請人が本件配転命令に従う義務のないことが本案判決によつて確定されるまでの間、申請人があえて本件配転命令に従うことを拒否するとすれば、事実上、被申請人から免職その他の懲戒処分を受け、賃金等の支払いを受けられなくなるおそれのあることは、疎明資料(疎乙第一号証)によつて認められる被申請人会社の職員就業規則第六一条ないし第六三条等の規定に徴して、明らかである。さらに、疎明資料(<証拠略>)によれば、申請人が本案判決の確定するまでの長期間アナウンス課の業務に全く従事することができないとすると、申請人がこれまで長年の努力、訓練等によつて蓄積してきたアナウンス業務に関する知識、技術、能力等が容易に回復しがたい程に低下する蓋然性も大であることが認められる。以上の事情を総合すれば、本件仮処分はその必要性があるものというべきである。
九よつて、申請人の本件仮処分の申請は、申請人に保証を立てさせないで、これを認容することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり決定する。
(奥村長生)